大規模震災と葬儀 終活の豆知識63

2011年3月11日に発生した東日本大震災から13年目の今年の元日、能登半島地震が発生しました。富士市からも消防など行政機関をはじめ、多くのボランティアの方々が駆けつけて、今もなお、懸命な復旧作業が行われています。災害時にはさまざまな職種の人材が必要となります。そこで葬儀従事者から見た大規模震災について、かぐやの里メモリーホール代表の中村さんと考えてみます。

震災発生で思うことは?

今でも東日本大震災のことは鮮明に覚えており、大規模地震が発生するたびに辛さを思い出します。東日本大震災発生時の3月11日、私は都内におりまして、その日の晩は江東区新木場という湾岸沿いの工業地帯で過ごしました。

その一帯は埋め立て地であり、液状化現象で道路のいたるところが陥没やひび割れを起こしており、車両通行が危険な状況でした。都内の道路ものすごい渋滞で、数時間で数メートルしか進まない状況、そして電車なども動いておらず、自宅に帰ることができずに新木場社内で一夜を過ごしました。翌日からはガソリンスタンドには長蛇の列。それでも葬儀や火葬の業務を止めるわけにはいかないので、苦労しながら業務にあたっていました。

被災地の支援

葬儀従事者として被災地ボランティアに入りました。今でも付き合いのある宮城県仙台市の最大手葬儀社である「清月記」に入り対応しました。現地では救助が懸命に行われている一方で、命を落としてしまった方々の対応も急務です。

身元確認、遺体保全、遺体安置所の確保、火葬対応など普段の遺体対応とは全く違います。われわれはもちろんのこと、現地の方々も手探りで作業を進めておりました。私は、昼間は遺体の火葬場搬送、夜は棺の組み立て作業と連日連夜の作業でした。

葬儀従事者としての活動

私は被災した気仙沼市に入りました。漁港は壊滅的状況で、陸地の住宅に漁船が乗り上げていたり、出荷用の魚が道端で山積みの状態で腐敗していたりと、想像を絶する現場でした。そして、そこでは多くの方も亡くなっていました。

被災されて亡くなられた方の対応としては、ご遺体捜索は自衛隊、ご遺体身元確認は警察、ご遺体対応は葬儀従事者と連携されていました。ご遺体対応とは、主には納棺と火葬場への搬送でした。日に日に発見されるご遺体が増える状況の中で、われわれは全国各地の葬儀社から送られてきた棺を準備してお身体を納棺。そして割り当てられた火葬場へお連れしました。近隣の火葬場は被災しており稼働できない状況です。そのために近隣県の市町村の火葬場へお連れすることになります。片道3時間かけてお連れしたケースもありました。

災害時にかぐやの里メモリーホールができること

先にも述べたように、被災地では、やらなければならないことが山積します。だからこそ、どこで誰が何をするかが重要です。そのためには指揮系統と指揮官が重要です、宮城県仙台市の葬儀社「清月記」さんの対応はとても素晴らしいものでした。

私もその時の話を何度も聞きながら、大地震が懸念される富士市で、いざという時にわれわれができること、そして、しなければならないことを想定し始めました。

その最初が、富士市との防災協定締結でした。行政対応と連携して非常事態にあたること。それと同時に葬儀社ネットワークを利用した災害時対応が重要と考えました。

多くの方が亡くなる被災現場では、棺、納体シート、防腐剤などの物資が不足します。東日本大震災の際にも、全国各地の葬儀社から棺が被災地葬儀社にどんどん送られてきました。それこそ一般的な棺から高級棺までありましたが、とにかく数が必要でした。それをどこで使うのかの交通整理も必要となります。

われわれだからできること、そして過去の経験を活かして対応できること、いざという時に地元のために動ける葬儀社を目指していきます。